健康経営に力を入れている企業でも、「どれだけ効果があったのか数字で説明できない」という壁にぶつかることは少なくありません。経営層への予算申請、投資家向けの開示、認定審査——いずれの場面でも求められるのが、施策の投資対効果(ROI)を定量的に示す力です。
この記事では、健康経営のROI計算に必要な考え方・3つの測定領域・実務での算定手順を、人事・経営企画担当者向けに体系的に解説します。
ROI計算が求められる背景:経産省ガイドラインと認定制度
健康経営のROI計算が「努力目標」から「実務要件」になりつつあるのは、制度的な後押しがあるからです。
経済産業省「健康投資管理会計ガイドライン」の枠組み
経済産業省は2021年に「健康投資管理会計ガイドライン」を公表し、企業が健康投資の効果を財務的に算定・開示するための標準フレームワークを整備しました。このガイドラインでは、健康投資を「人的資本への投資」と位置づけ、コスト・アウトカム・ROIの三層で整理することを推奨しています。
2025年4月に公表された「これからの健康経営について」では、健康経営の取り組みを「企業価値向上」と結びつけ、人的資本情報の開示との一体的な推進が明示されました。ROI計算は開示基盤の核心的な要素です。
(参考)これからの健康経営について(2025年4月) – 経済産業省
健康経営優良法人認定との連動
健康経営優良法人(大規模法人部門)の認定審査では、「健康投資の効果測定」が評価項目のひとつに含まれています。ROIの算定・開示に取り組んでいる企業はブライト500(上位500社)選出においても優位性を持ちます。つまりROI計算は、内部の経営判断だけでなく、対外的な信頼性向上にも直結します。
健康経営ROIを構成する3つの測定領域
ROIの基本公式は「(リターン-投資コスト)÷ 投資コスト × 100(%)」です。健康経営における「リターン」は主に以下の3領域から積み上げます。
| 測定領域 | 代表指標 | 計算の考え方 |
|---|---|---|
| ①医療費削減 | 健保組合の医療費総額 | 施策前後の1人あたり医療費の差 × 対象人数 |
| ②生産性向上 | プレゼンティーイズム損失率 | 損失率の改善幅 × 1人あたり人件費 × 対象人数 |
| ③離職・採用コスト削減 | 離職率・採用単価 | 削減された離職者数 × 1人あたり採用・育成コスト |
表:健康経営ROIの3測定領域と主な計算アプローチ
①医療費削減のROI計算
最も直接的に計算しやすい領域です。健保組合のデータがある場合、施策導入前後の1人あたり医療費(年間)を比較します。例えば、「施策前:42万円 → 施策後:39万円、対象500人」であれば、削減額は「3万円 × 500人 = 150万円」です。施策コストが100万円なら、ROIは50%となります。
注意点は、医療費の変動には景気・年齢構成・インフルエンザ流行など外部要因が影響するため、複数年のトレンドで比較するか、未施策グループとの対照比較(差の差分析)を行うとより精度が上がります。
②プレゼンティーイズムのROI計算
プレゼンティーイズムとは、出勤しているものの体調不良や精神的な不調により生産性が落ちている状態です。健康問題による損失の多くがここに潜んでいます。測定にはWHO-HPQ(ハーバード労働時間調査票)やSPQ(東大1項目版)が使われます。
計算の考え方は「損失率の改善幅(例: 施策前20% → 施策後15%、改善5pp)× 1人あたり人件費(例: 年600万円)= 1人あたりリターン30万円」です。対象人数をかければ総リターンが算出できます。生産性損失は医療費の3〜5倍に上ることも多く、ROI計算の中核になります。
③離職・採用コスト削減のROI計算
健康経営の取り組みが定着率向上につながる場合、離職コストの削減もROIに計上できます。一般的に、社員1人が離職した際の採用・育成コストは年収の1〜2倍程度とされます。
例えば、施策導入前の年間離職率が8%(500人規模では40人)が、施策後に6%(30人)に下がれば、10人分の採用コストが削減されます。採用単価を100万円とすれば、年間1,000万円の削減効果として計上できます。
ROI算定の実務手順:4つのステップ
理論はわかっても「実際どこから手をつければいいか」が悩みどころです。以下の4ステップで進めると、初めての組織でも体系的に取り組めます。
Step 1:測定する施策と対象指標を絞る
すべての施策のROIを一度に測ろうとすると、データ収集だけで膨大な工数がかかります。まずは「今年度もっとも費用をかけた施策」や「経営層が関心を持っている施策」に絞り、1〜2領域から着手します。
Step 2:ベースラインデータを収集する
施策導入「前」のデータが揃っていないと比較ができません。健保組合の医療費レポート、従業員サーベイ(プレゼンティーイズム)、離職率の過去推移を少なくとも1〜2年分確保しておきます。新たに施策を始める場合は、開始前にベースライン調査を実施することが重要です。
Step 3:施策コストを全項目で集計する
施策の直接費(外部委託費・設備費)だけでなく、社内工数(担当者の人件費)や間接コスト(管理費・システム費)も含めて正確に積み上げます。コストを過小評価すると、ROIが実態より高く見えてしまい、後で信頼性を問われます。
Step 4:成果指標を測定・算定し、比較する
施策実施後(最低1年後)に各指標を再測定し、ベースラインと比較します。ROIの数値だけでなく、「何がどれだけ改善したか」のストーリーを添えると経営層への説明力が上がります。数値が想定より低い場合も、改善余地と次の打ち手を提示することで施策継続の根拠になります。
ROI以外の視点:VOI(投資価値)の活用
ROIは財務的な数値ですが、健康経営の効果には「金額に換算しにくいもの」も多くあります。従業員エンゲージメントの向上、組織風土の変化、採用ブランド力の向上などです。これらをまとめて「VOI(Value on Investment)」と呼ぶことがあります。
ROIとVOIの両方を組み合わせて報告することで、財務的な説明責任と人的資本としての長期的価値の両軸を示せます。特に投資家向けの情報開示においては、VOI指標(エンゲージメントスコアや健康スコアの推移など)が参照されるケースが増えています。
まとめ
健康経営のROI計算は、施策の正当化だけでなく、次の打ち手の優先順位を決める「経営の羅針盤」になります。
- ROI計算の根拠となる枠組みは経産省「健康投資管理会計ガイドライン」が標準
- 測定領域は「①医療費削減」「②プレゼンティーイズム」「③離職・採用コスト削減」の3つが中心
- 算定は4ステップ(施策絞り込み→ベースライン収集→コスト積み上げ→成果測定)で進める
- 金額化しにくい効果はVOIとして別途整理し、ROIと組み合わせて報告する
- 数値と「改善のストーリー」をセットで提示することが経営層の理解を得るコツ
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