五郎丸歩がラグビーW杯で見せたキックルーティンの正体
2015年のラグビーワールドカップ、南アフリカ戦の劇的な勝利とともに世界に広まったのが、五郎丸歩選手のキック前の独特な所作だった。壁を作るように手を組み、指を立て、決まった歩数で助走に入る。あの一連の動きは単なる癖ではなく、心を整えるために長い時間をかけて磨き上げられてきた習慣である。
技術と体力を鍛え抜いた先にあの結果があったのは間違いない。だが、あの試合の勝敗を分けた最後の一押しには、心の状態を一定に保つ仕組みが深く関わっていたと考えられている。ラグビー日本代表には専属のメンタルトレーナーが帯同し、安定したパフォーマンスを発揮させるための取り組みの一つとしてルーティンの徹底が図られていたと伝えられている。
壁と指と歩数に込められた意味
五郎丸選手のルーティンは、壁を作る動作、指を立てる動作、引き足の2歩と3歩、細かい足運びの8歩という具体的な手順で構成されていたと伝えられている。この一つひとつの動きに意味を持たせ、繰り返し練習することで、プレッシャーのかかる場面でも同じキックフォームを再現できるようにしていったという。決まった手順を毎回同じ順序でなぞることが、心を落ち着けるスイッチになっていた。
呼吸を整えることが心を整える理由
ルーティンの本質は、結果に結びつく縁起担ぎとは異なる。日本代表のメンタル面を支えたスポーツドクター・辻秀一氏は、ルーティンを「心を整えるための行動習慣」と説明している。脳はさまざまな思考によって心に揺らぎやとらわれを生み、パフォーマンスを乱してしまう。だからこそ、事前に決めた行動に意識を向けることで、心の状態を整える必要があるという考え方だ。
呼吸はその中でも特に重要な要素だと考えられる。息を吐く動作に意識を向けることで、肩や腕の力みが抜け、余計な考えが後退していく感覚が生まれやすい。五郎丸選手の一連の所作にも、歩数を踏みながら呼吸のリズムを整える時間が織り込まれていたと見ることができる。決まった歩数を踏むという行為そのものが、呼吸を一定のテンポに保つための目安になっていた可能性がある。
実際、緊張する場面では呼吸が浅く速くなりやすい。浅い呼吸は交感神経を優位にし、視野が狭くなったり、力みが強くなったりする傾向があるとされる。ルーティンの中に呼吸を整える時間を組み込むことは、この生理的な反応に対処する現実的な手段だといえる。呼吸のテンポを一定に保つことは、心拍のリズムを整えることにもつながると考えられており、キックのような一発勝負の場面ほど、その効果を実感しやすい。
(参考)五郎丸ポーズ!? 揺らがず・とらわれない思考法 – coFFee doctors
行動だけでなく思考にもルーティンを持つ発想
会社の会議室で五郎丸選手と同じポーズを取ることはできないし、通勤電車の中でイチロー選手のバッティングポーズを再現することも難しい。行動のルーティンは効果的だが、場所や状況を選ぶという弱点もある。一方で、思考の習慣であればいつでもどこでも持ち歩ける。
辻氏はこの点について、行動のルーティンに加えて「思考のルーティン」を持つことの価値を説いている。自分の感情に気づく、今この瞬間に集中する、機嫌よくいることの価値を考える。こうした脳の使い方の習慣が、心を落ち着けた状態に導くという発想だ。これは繰り返しの練習によってスキルとして身につけられるものであり、一度身につければ状況を選ばずに使える点が大きな利点になる。
ポジティブ思考との違い
ここで語られる思考習慣は、単純なポジティブ思考とは性質が異なる。外の出来事に対してプラスに考えようとする姿勢ではなく、思考そのもののエネルギーで心を整えるアプローチである点が特徴だ。うまくいくかどうかを気にするのではなく、今の自分の状態そのものを整えることに焦点を当てている。
フロー状態がパフォーマンスを引き上げる仕組み
心理学の分野では、極度に集中し実力が自然に発揮される状態を「フロー」と呼ぶ。国立スポーツ科学センター(JISS)はメンタルトレーニング技法の一つとして、呼吸法や決まった所作によって心の状態を一定に導く手法を紹介している。フロー状態では過剰な自己監視が薄れ、直感的な判断や動作が引き出されやすくなるとされる。
五郎丸選手が積み重ねた歩数と所作は、この状態に入るためのスイッチのような役割を果たしていたと考えられる。競技の種類を問わず、決まった手順に意識を向けることで心を落ち着けるという考え方は、多くのトップアスリートに共通する発想でもある。プレー中に結果を意識しすぎると、視野が狭くなり本来の実力が発揮しにくくなる。ルーティンはその意識を今の一歩、今の呼吸に引き戻すための装置だと捉えることができる。W杯という重圧のかかる舞台であればあるほど、こうした小さな手順の積み重ねが心の安定に直結していたと見ることができる。
(参考)メンタルトレーニング技法 – 国立スポーツ科学センター(JISS)
呼吸ルーティンを日常に取り入れる3つの視点
五郎丸選手のような専用の所作を持たなくても、呼吸を軸にした心の整え方は誰でも取り入れられる。大きな動作をそのまま真似るのではなく、その背景にある考え方を借りることがポイントになる。
①同じ姿勢から始める
座る位置や手の組み方など、毎回同じ姿勢から始めることで、脳がその後の行動を予測しやすくなる。大事な会議やプレゼンの前に、椅子に座り直す、資料を同じ順番で並べるといった小さな手順を決めておくだけでも効果が期待できる。
②鼻から吸って口からゆっくり吐く
吸う時間より吐く時間を長くすることを意識すると、余計な力みが抜けやすくなる。目安として、4秒かけて鼻から吸い、6秒から8秒かけて口からゆっくり吐き出すという方法がよく用いられている。
③決まった言葉を心の中で繰り返す
「大丈夫」「ここから」など、短い言葉を一つ決めて繰り返すことで、思考の揺らぎを減らしていける。言葉は結果を保証するものではなく、今の自分の状態に意識を戻すための合図として使う。
大事な場面ほど緊張は強くなるものだ。だからこそ、呼吸という誰もが持っている行為に意識を向ける習慣は、ラグビーに限らず、あらゆる競技や日常の場面に応用できる考え方だといえる。


よくある質問
ルーティンは誰でも身につけられますか
特別な才能は必要ない。同じ姿勢や呼吸のリズムを繰り返し練習することで、誰でも自分なりの手順を作ることができる。
ルーティンと縁起担ぎは何が違いますか
縁起担ぎは結果に結びついた行動であるのに対し、ルーティンは結果に関係なく心を整えるための行動習慣という違いがある。
呼吸法だけで緊張はなくなりますか
緊張そのものをゼロにするものではないが、呼吸に意識を向けることで力みを減らし、いつも通りの動作に近づけやすくなる。
まとめ
- 五郎丸選手のキックルーティンは、心を整えるために磨かれた行動習慣だった
- 呼吸を整えることは、力みを抜き余計な思考を後退させる効果がある
- 行動だけでなく思考にもルーティンを持つという発想が土台にある
- フロー状態は決まった手順をきっかけに引き出されやすくなる
- 姿勢・呼吸・言葉の3つを軸にすれば、誰でも自分なりのルーティンを作れる
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