2018年12月、日本の男子プロテニス界にひとつの組織が生まれた。一般社団法人 全日本男子プロテニス選手会(JTPU)である。労働組合のような対立組織ではなく、選手の声を協会に届けるための器として立ち上げられたこの団体で、2020年12月から2代目代表理事を務めているのが内山靖崇だ。現役のツアー選手として世界を転戦しながら、なぜ組織のトップという重責を自ら引き受けたのか。その判断の背景には、個人競技の選手が組織を率いるうえでの独自の思考モデルがある。
個人競技の代表理事という前例のない役割を選んだ理由
内山は発起人の一人として、添田豪とともにJTPU発足前から動いていた。「選手間それぞれで意見を持っていても、個々ではそれを協会の上の方までなかなか伝えてもらえない」。この課題意識が、組織づくりの出発点になっている。
2020年に2代目代表理事を引き受けた理由について、内山はこう語っている。「コロナ禍になって、選手がなかなか試合に行けないとか、練習がままならないとか、トレーニング環境が整わないとか、選手にとって不都合が多い中で、何とかそれらを僕は改善したいなと思っていました」。加えて「代表になって、より責任を持っていろんな人と関わることで、テニスへの見方が広がるんじゃないかな」という視座の広がりへの期待も、決断を後押ししたという。
負担より視座の広がりを選ぶという判断基準
代表就任は現役選手としての負担を確実に増やす。それでも内山が立候補したのは、「得るものもすごく大きいと感じた」という一点に尽きる。目先のコストよりも、経験を通じて広がる物事の見え方を優先する。これは、キャリアの岐路に立つ人が参考にできる判断軸のひとつだ。
内山はこの決断を、選手としての残り時間とも重ね合わせている。「選手としての現役生活はあと10年ないと思っているので、その中で持てるすべてを出しきらないといけない。同時に、自分の人生は、テニスが終わってからの方が長いので、その時にもどんな形かわからないけどテニスに携わっていたい」。現役生活という有限な時間の中でどこにリソースを割くかを考えたとき、目先の勝敗の最大化だけでなく、引退後にも続く関わり方の土台づくりに時間を投じるという選択をしている。これは、目の前の業務成果と、長期的なキャリア資本の蓄積とを天秤にかけるという、多くの働く人にとっても身近な意思決定の構造と重なる。
なぜ個人競技の選手たちをひとつにまとめられたのか
テニスは個人競技であり、選手同士は試合ではライバルだ。それでもJTPUが機能した背景には、コロナ禍という共通の危機があった。「選手会のグループLINEがあるんですけど、海外遠征に出ている選手から、入国に必要なことやトラブルを伝え合ったりしました」と内山は振り返る。「もちろん選手個々、試合ではみんなライバルですけど、コロナ禍ではプラスの面が大きかったんじゃないか」。
一方で、日本ランキング1位から100位までを内包する組織ゆえの難しさもある。「1~100位で幅があると、選手それぞれ戦うステージが違います」。上位選手は全日本のドローサイズを絞って海外遠征と両立させたいと考え、下位選手はドローサイズを広げて出場機会を増やしたいと考える。利害が対立する場面で、内山が徹底したのは「どれが良い悪いではなくて、こういう意見があることを協会へ投げて、議論してもらう」という中立的な媒介者としての立ち位置だった。
錦織圭との距離感に表れる組織運営の慎重さ
日本テニス界の顔である錦織圭は、JTPUのメンバーではない。加入していない理由を問われた内山の答えは明快だ。「対外的には選手の総意ではなくて、”錦織圭の意見”みたく見えてしまったらあまり良くないな」。組織の意見が特定の個人の意見に矮小化されることを避けるため、あえてメンバーという形にこだわらない関わり方を選んでいる。実際、錦織はJTPUのリレー動画やオンラインファンミーティングには参加しており、賛同そのものはしているという。組織の代表性を守るために距離を保つという判断は、個人の影響力が強い分野でリーダーシップを発揮する際の重要な視点を示している。
選手会長という立場から見えてきた業界の構造的な課題
内山が代表理事として直面してきたのは、選手間の利害調整だけではない。日本国内のテニス大会そのものの質にも課題を感じてきた。「JOP大会だと、審判が準決勝や決勝までつかないんです」「JOP大会では、2球使用で1セットとか4球使用で2セット、これでは選手がいいプレーをなかなかできないだろう」。
この課題意識は、自ら立ち上げた「Uchiyama Cup」という大会運営という形で実践に移された。審判配置やボールの本数といった、削ろうと思えば削れる部分にこそ、選手とファンの双方が求める大会の質が宿ると内山は考えている。
科学的に見る集団の意思決定と少数意見の扱い
組織行動論において、多様な立場を持つメンバーの意見を集約する役割は「境界連結者(boundary spanner)」と呼ばれる。組織の内と外、あるいは組織内の異なる利害グループの間に立ち、情報と意見を翻訳しながら橋渡しする機能である。内山がJTPU代表として行ってきた「どの意見が良い悪いではなく、協会へ投げて議論してもらう」という姿勢は、まさにこの境界連結者の実践に近い。特定の意見を代表するのではなく、意見の多様性そのものを可視化して次の意思決定者に渡すという振る舞いは、価値観の異なるメンバーを抱える組織のリーダーに共通して求められる資質だ。
プロ野球やラグビーの選手会と比較して見える独自性
内山自身、「プロ野球やラグビーやプロゴルフの選手会を参考にさせてもらっている」と語る。ただし、チームスポーツの選手会と個人競技の選手会には決定的な違いがある。チームスポーツでは所属チームという共通の利害単位があるが、個人競技の選手は全員が独立した事業者に近く、大会のドローサイズひとつをとっても、ランキング次第で真逆の要望を持つ。この「個人事業主の集合体をまとめる」という構造は、フリーランスや個人事業主が増える現代の働き方とも重なる部分がある。共通の看板を持たない個人が集まって声を上げる仕組みづくりという点で、内山の経験は競技の枠を超えた示唆を持つ。
内山が触れているように、日本テニス界の危機感の背景には、コロナ禍によるツアー中断で世界レベルとの差が開いたという事情もある。「もしかしたら、ツアー中断中に日本男子とツアーレベルとの差が開いてしまったのかもしれない」という分析は、外部環境の変化によって組織全体の実力差が生まれるという、業界全体の構造課題への言及でもある。個人の頑張りだけでは埋められない環境要因を認識したうえで、それでも自分の持ち場でできることに取り組む姿勢は、業界全体が逆風にさらされる状況で働く人々にとっても参考になる態度だ。
一般人のキャリアや組織運営に転用できる思考モデル
内山の判断から抽出できる思考モデルは大きく三つある。ひとつは「負担よりも視座の広がりを取る」という意思決定の軸。ふたつめは「特定個人の影響力に依存させない」という組織設計の視点。みっつめは「対立する利害を裁くのではなく、両方の声を上位者に届ける」という媒介者としての振る舞いだ。これらは、部署間の利害が対立する社内プロジェクトのリーダーや、異なる立場のメンバーが混在するコミュニティ運営など、競技以外の場面でもそのまま応用できる。
特に三つめの「媒介者としての振る舞い」は、管理職やプロジェクトリーダーに就いたばかりの人が陥りやすい罠を避ける手がかりになる。立場が違うメンバーの意見が対立したとき、リーダーはつい自分の判断でどちらかに軍配を上げたくなる。しかし内山が実践してきたのは、優劣をつけずに両方の意見を上位の意思決定者、あるいは関係者全体に見える形で提示するという振る舞いだった。これにより、決定への納得感が生まれやすくなるだけでなく、リーダー自身が板挟みで消耗することも避けられる。組織の規模が小さいうちほど、この「裁かずに橋渡しする」という姿勢は機能しやすい。
また、Uchiyama Cupの運営で見せた「審判やボールの本数を削らない」という判断も応用が利く。コストカットの対象になりやすい部分ほど、実は利用者やメンバーの満足度に直結しているという視点は、業務改善やサービス設計に携わる人にとっても示唆的だ。効率化を進める際に、何を削り何を残すかを見極める基準として、内山は「選手目線とファン目線の両方で良いと言えるかどうか」を掲げている。この二軸で物事を評価するという発想は、社内向けの業務改善と社外向けの顧客体験の両方を担当する立場の人にとって、そのまま使える判断基準になる。
思考整理にAIを活用するという選択肢
内山のように複数の立場の意見を同時に扱う役割では、誰がどんな意見を持っているかを記録し、対立点と共通点を整理する作業が欠かせない。近年は、こうした思考整理にAIチャットツールを使う人も増えている。例えば、複数の関係者から聞いた意見を箇条書きで入力し、「対立点」と「共通の目的」に分けて整理してもらう、という使い方だ。人間関係の機微そのものはAIには判断できないが、情報を構造化して見通しを良くする補助線としては有効に機能する。判断そのものは自分で下すという前提のもとで、AIを思考の壁打ち相手にする発想は、内山が実践してきた「意見を可視化してから議論に委ねる」というプロセスとも相性が良い。
具体的には、ミーティング後のメモをそのままAIに渡して「賛成意見」「反対意見」「まだ判断材料が足りない論点」の三つに分類させるといった使い方が考えられる。人間が最初から頭の中だけで整理しようとすると、声の大きい意見や自分に近い立場の意見に引っ張られやすい。いったんフラットな形で書き出し、AIに整理させることで、内山が大切にしていた「どれが良い悪いではない」というニュートラルな視点を保ちやすくなる。もちろん最終的にどの意見をどう扱うかを決めるのは人間の役割であり、AIはあくまで判断材料を整える補助線にとどまる。
まとめ
内山靖崇がJTPU代表理事として貫いてきたのは、自分の意見を通すことではなく、多様な立場の声を歪めずに届ける仕組みをつくることだった。負担の大きさよりも得られる視座の広がりを選び、特定の個人に組織の代表性を委ねず、対立する利害には優劣をつけずに議論の場へ橋渡しする。これらの判断は、個人競技という特殊な環境だけでなく、立場の異なる人々をまとめるあらゆる組織運営に応用できる思考モデルである。
よくある質問
JTPUとはどのような組織ですか
2018年12月に発足した一般社団法人で、日本ランキング上位の男子プロテニス選手が加入できる選手団体である。労働組合的な対立組織ではなく、選手の意見を日本テニス協会に伝えるための橋渡し役として機能している。
錦織圭選手がJTPUに加入していないのはなぜですか
組織の意見が特定選手の意見だと見られることを避けるためで、加入していなくても賛同や協力関係は続いている。
個人競技の選手会運営はチームスポーツと何が違いますか
チームという共通の利害単位がなく、ランキングによって選手ごとの立場や求めるものが異なるため、意見集約がより難しくなる点が特徴である。
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