「記憶術」と聞くと、一部の記憶力チャンピオンだけが使える特殊技能だと思われがちです。しかし研究では、訓練を受けたことのない一般の成人でも、わずか数週間の練習で記憶力チャンピオンに近い記憶成績まで伸びることが確認されています。では、その練習は脳にどんな変化をもたらすのか。そして、健康経営担当者が社員の脳の健康維持に応用できる部分はどこなのか。誇張のない範囲で、研究知見を整理します。
記憶の達人と同じ変化が、6週間の練習で一般人にも起きる
2017年に学術誌Neuronに掲載されたDresler氏らの研究は、まず記憶力チャンピオン23名の脳のネットワークを分析しました。さらに訓練を受けたことのない一般の成人51名を対象に、「場所法」と呼ばれる記憶術(自分がよく知る場所に記憶したい情報を配置してイメージするテクニック)を6週間(1回30分を40回)練習させる実験を行いました。
その結果、練習前は72語中平均26語程度しか思い出せなかった参加者が、練習後には72語中平均62語まで思い出せるようになりました。さらにこの効果は、追加の練習をしなくても4か月後の再テストで持続していたことも確認されています。脳の機能的な結合パターンも、記憶力チャンピオンに見られるパターンに近づく変化が見られました。
(参考)Mnemonic Training Reshapes Brain Networks to Support Superior Memory – Neuron
Q. 記憶術は誰でも6週間で身につきますか?
Dresler氏らの研究では、訓練を受けたことのない一般の成人51名が、1回30分・週数回のペースで40回(約6週間)の練習によって記憶成績を大きく伸ばしました。個人差はありますが、特別な素質がなくても効果が確認されている点は重要です。
ACTIVE試験が示す「記憶トレーニング」の限界
ここで誠実に触れておきたいのが、記憶術の練習が認知症予防に直結するとまでは言い切れない、という研究上の限界です。米国で2,802名の高齢者を対象に行われた大規模試験「ACTIVE」では、参加者を「記憶トレーニング」「推論トレーニング」「処理速度トレーニング」の3グループに分け、5〜6週間・計10回のトレーニングを実施しました。
その後の追跡調査では、処理速度トレーニングを受けたグループは、10年後の追跡で認知症発症率が29%低く、20年後の追跡でも約23時間分の処理速度トレーニングを受けた人は認知症・アルツハイマー病のリスクが25%低いという結果が出ました。ところが、記憶トレーニングと推論トレーニングのグループでは、認知症リスクの統計的に有意な低下は確認されませんでした。
つまり、認知トレーニング全般に効果があるわけではなく、「どの種類の訓練か」によって、認知症予防への効果には差がある可能性が示されています。記憶術の練習を「認知症予防に効く」と単純化して説明するのは、現時点の研究では正確ではありません。
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Q. 記憶術のトレーニングをすれば認知症は予防できますか?
現時点の研究では言い切れません。ACTIVE試験では、処理速度トレーニングには認知症リスク低下との関連が確認された一方、記憶トレーニングには統計的に有意な関連は見られませんでした。記憶力そのものの向上とは別に扱う必要があります。
2つの研究を並べて見る|対象・手法・分かったこと
Dresler研究とACTIVE試験は、どちらも記憶に関わるトレーニングを扱っていますが、目的と分かったことが異なります。比較すると、記憶術の練習に何を期待し、何を期待すべきでないかが整理できます。
| 研究 | 対象・手法 | 分かったこと |
|---|---|---|
| Dresler et al. 2017(Neuron) | 未経験の成人51名、場所法を6週間練習 | 記憶成績が大幅に向上し、4か月後も持続。脳の結合パターンが変化 |
| ACTIVE試験(2,802名) | 記憶・推論・処理速度の3種のトレーニングを比較 | 処理速度トレーニングのみ、長期の認知症リスク低下と関連 |
Neuron掲載論文・ACTIVE試験の公式発表をもとにHuman Soarが整理した比較(2026年8月時点)。
Dresler研究が示すのは「記憶力そのものの向上」
この研究が示したのは、練習によって記憶力自体が大きく伸び、その効果が数か月続くという事実です。認知症予防効果を証明したものではなく、あくまで「記憶術という技能は誰でも習得でき、脳の使い方も変化する」ことを示した研究です。
ACTIVE試験が示すのは「トレーニングの種類による差」
ACTIVE試験が示したのは、同じ「認知トレーニング」でも、種類によって長期的な効果に差があるという事実です。記憶術の練習を導入する際は、「記憶力を伸ばす効果」と「認知症を予防する効果」を混同せず、分けて説明する必要があります。
知的活動全般と認知症予防の関係
記憶術という特定の技法単体の効果とは別に、知的活動全般が認知症予防に関わるという知見も存在します。国立長寿医療研究センターは、手紙を書くといった知的活動を生涯にわたって行ってきた人は、アルツハイマー病の原因物質とされるアミロイドβの蓄積が少ない傾向を報告しており、身体活動・知的活動・社会活動を組み合わせることを認知症予防の推奨として示しています。
記憶術のトレーニングも、この「知的活動」の一形態として位置づけることはできます。ただし記憶術だけを特別視せず、運動や社会的なつながりと組み合わせて考えることが、同センターの知見に沿った理解の仕方です。
Q. 記憶術は知的活動として認知症予防に位置づけられますか?
国立長寿医療研究センターは、知的活動を身体活動・社会活動と組み合わせることを認知症予防の推奨として示しています。記憶術の練習もこの知的活動の一つとして考えられますが、単独で予防効果が証明されているわけではありません。
記憶術トレーニングが脳に効くプロセス
Dresler研究の知見をもとに、記憶術のトレーニングがどのように脳に作用するのか、Human Soarでは次の3段階として整理しました。
Neuron掲載のDresler et al. 2017研究をもとにHuman Soarが独自に整理した3段階のプロセス。
この3段階は記憶力そのものの向上プロセスであり、前述のとおり認知症予防効果とは別に理解する必要があります。社内で紹介する際も、「記憶力が伸びる仕組み」として説明し、「認知症が防げる」という誇張した表現は避けるべきです。
健康経営の施策にどう活かすか
記憶術のトレーニングを健康経営施策に組み込む場合、現実的な打ち出し方は「記憶力向上・脳の使い方のトレーニング」であり、「認知症予防策」として単独で打ち出すのは研究の実態に合いません。社員向けの研修や福利厚生プログラムとして紹介する際は、Dresler研究が示す「誰でも数週間の練習で記憶成績が伸びる」という再現性の高さを訴求ポイントにしつつ、認知症予防については国立長寿医療研究センターが推奨する運動・社会活動と組み合わせた総合的な取り組みの一部として位置づけるのが、誠実で正確な説明になります。
よくある質問
Q. 場所法以外の記憶術も同様の効果が確認されていますか?
Dresler氏らの研究で確認されたのは場所法についてです。チャンキングなど他の記憶術についても同様の脳の変化が起きるかは、今回の調査範囲では確認できていません。断定せず、まずは場所法の知見として理解するのが正確です。
Q. 社員研修に記憶術を取り入れる際の注意点は何ですか?
「記憶力が伸びる」という効果と「認知症を予防する」という効果を混同しないことです。前者はDresler研究で再現性高く確認されていますが、後者は記憶トレーニング単体では有意な効果が確認されていません。
まとめ
- Neuron掲載のDresler研究では、未経験者でも6週間の場所法練習で記憶成績が大幅に向上し、4か月後も持続した
- ACTIVE試験では、処理速度トレーニングは長期的な認知症リスク低下と関連したが、記憶トレーニングには有意な関連が見られなかった
- 記憶術の効果は「記憶力そのものの向上」であり、「認知症予防」とは分けて理解する必要がある
- 国立長寿医療研究センターは、知的活動を運動・社会活動と組み合わせることを認知症予防の推奨としている
- 健康経営施策では、記憶術を「脳の使い方のトレーニング」として位置づけ、誇張のない説明を心がける
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