健康診断の結果に一喜一憂する社員は多いが、「運動不足が将来の記憶力にどう影響するか」まで意識している人は少ない。健康経営担当者にとっても、運動施策の目的は「生活習慣病予防」止まりになりがちです。実は運動には、記憶を司る脳の部位「海馬」を物理的に大きくするという、あまり知られていない効果があります。この記事では、その根拠となる研究と、健康経営の現場でどう活かせるかを整理します。
有酸素運動が海馬の体積を増やすという研究結果
2011年に米国の科学アカデミー紀要PNASに掲載されたErickson氏らの研究は、60歳前後の高齢者120名を対象に、1年間の有酸素運動介入(週3回のウォーキング)と、ストレッチ中心の運動を行う対照群を比較しました。その結果、有酸素運動群では記憶に関わる「前部海馬」の体積が約2%増加した一方、対照群では体積が減少しました。研究者らは、これが加齢による脳の萎縮を1〜2年分ほど巻き戻す効果に相当すると評価しています。
さらにこの研究では、海馬の体積増加が血中のBDNF(脳由来神経栄養因子)濃度の上昇と関連していたことも示されています。BDNFは神経細胞の新生や維持に関わるタンパク質で、運動によって分泌が促されることが知られています。
(参考)Exercise training increases size of hippocampus and improves memory – PNAS(米国科学アカデミー紀要)
Q. 海馬が2%大きくなるとは、具体的にどんな効果がありますか?
Erickson氏らの研究では、体積増加とあわせて空間記憶の成績が改善したことが確認されています。一方、対照群では体積が減少し、記憶成績も相対的に低下する傾向が見られました。
国立長寿医療研究センターが示す運動と認知症予防の関係
日本国内でも、運動と認知機能の関係は研究が進んでいます。国立長寿医療研究センターは、軽度認知障害(MCI)の高齢者を対象に、運動と認知課題を組み合わせた「コグニサイズ」というプログラムの効果を検証しており、全体的な認知機能や言語の流暢性、記憶や脳萎縮に対する改善効果を確認しています。同種の効果は、対象者数を増やした別の検証でも再現されています。
また同センターは、週3回以上の運動習慣がある人は、週3回未満の人と比べてその後の認知症発症割合が低かったことも報告しています。海外の一つの研究結果だけでなく、日本の高齢者を対象にした研究でも同様の傾向が確認されている点は、企業がこの知見を施策に取り入れる際の裏付けになります。
(参考)認知症の危険因子と運動による予防 – 国立長寿医療研究センター
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2つの研究を並べて見る|対象・手法・成果の違い
海外のErickson研究と、国立長寿医療研究センターの研究は、どちらも「運動が脳に良い」ことを示していますが、対象者や手法には違いがあります。この違いを整理すると、自社の従業員層に近いのはどちらの知見かを判断しやすくなります。
| 研究 | 対象 | 介入内容 | 主な成果 |
|---|---|---|---|
| Erickson et al. 2011(PNAS) | 60歳前後の健常高齢者120名 | 週3回の有酸素ウォーキング(1年間) | 前部海馬体積+2%、空間記憶の改善 |
| 国立長寿医療研究センター | 軽度認知障害(MCI)の高齢者 | 運動+認知課題を組み合わせたコグニサイズ | 全体的認知機能・言語流暢性・記憶の改善 |
PNAS掲載論文・国立長寿医療研究センター公式情報をもとにHuman Soarが整理した比較(2026年8月時点)。
Erickson研究|健常な社員層への適用に近い
Erickson研究の対象は、認知機能に問題のない健常な高齢者です。企業の従業員、特に健康な中高年層に運動施策を展開する際の根拠として、比較的そのまま参照しやすいデータです。
コグニサイズ研究|予防的・保健指導的な位置づけ
国立長寿医療研究センターの研究は、すでに軽度の認知機能低下が見られる層を対象にしています。企業においては、定期健診等で認知機能低下のリスクが指摘された社員への保健指導という文脈で参照するのが適切です。
Q. コグニサイズとは何ですか?
運動と認知課題(計算やしりとりなど)を同時に行うプログラムで、国立長寿医療研究センターが開発しました。軽度認知障害の高齢者を対象にした検証で、認知機能や記憶の改善効果が確認されています。
運動が脳に効く仕組み|3段階のプロセス
運動がなぜ海馬に影響するのか、そのメカニズムを整理すると、施策の説明資料にも使いやすくなります。Human Soarでは、複数の研究で共通して言及されるプロセスを次の3段階として整理しました。
Erickson研究等で言及される運動と脳の関係をもとにHuman Soarが独自に整理した3段階のプロセス。
この3段階はあくまで研究知見をもとにした一般的な整理であり、個人差があることには留意が必要です。ただし「運動→BDNF→海馬」という流れを押さえておくと、社員向けの説明資料や研修で、なぜ運動が推奨されるのかを具体的に伝えやすくなります。
Q. BDNFは運動以外でも増やせますか?
睡眠や食事などもBDNFに関わるとされますが、有酸素運動による分泌促進は複数の研究で繰り返し確認されている経路です。健康経営施策としては、まず運動機会の提供が再現性の高いアプローチになります。
健康経営の施策にどう組み込むか
経済産業省の健康経営制度は、運動機会の拡大を施策の柱の一つとして位置づけ、従業員の活力・生産性向上が業績につながるという論理を示しています。ただし現状、経産省の公式資料が「認知機能」「記憶力」に直接言及している箇所は確認できていません。したがって、企業が運動施策を認知症予防や記憶力向上の文脈で説明する際は、経産省の制度そのものではなく、本記事で紹介したErickson研究や国立長寿医療研究センターの知見を根拠として引用するのが正確な進め方です。
厚生労働省が2024年1月に公表した「健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023」も、成人・高齢者向けの身体活動量の目安を示しています。健康経営担当者は、このガイドが示す運動量の目安と、本記事で紹介した海馬・認知症予防の知見をあわせて社内に周知することで、「なぜその運動量が必要なのか」という理由づけに厚みを持たせられます。
(参考)健康づくりのための身体活動・運動ガイド2023(概要) – 厚生労働省
Q. 経産省の健康経営制度は認知症予防を評価項目に含んでいますか?
現状、経済産業省の公式資料に認知機能や記憶力への直接的な言及は確認されていません。運動機会の拡大という施策の柱を、認知症予防の文脈で説明する場合は、本記事で紹介した研究知見を根拠として補う必要があります。
まとめ
- PNAS掲載のErickson研究では、有酸素運動により前部海馬の体積が約2%増加し、空間記憶が改善した
- 国立長寿医療研究センターは、コグニサイズや運動習慣が認知機能・認知症発症リスクに関わることを報告している
- 2つの研究は対象者が異なり、健常層にはErickson研究、保健指導にはコグニサイズ研究が参照しやすい
- 運動→BDNF分泌→海馬の神経新生という3段階のプロセスは、社員への説明資料に活用できる
- 経産省の健康経営制度は運動機会の拡大を掲げるが、認知症予防への言及はなく、根拠は別途研究知見で補う必要がある
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