朝、目が覚めてまず手に取るのはスマートフォンではなく、枕元のスマートウォッチかもしれません。画面に表示された「睡眠スコア62点」という数字を見た瞬間、体の疲れよりも先に、胸の奥がすっと重くなる。前日は特に不調も感じなかったはずなのに、「今日は本調子じゃないかもしれない」という不安が、朝の支度をする間ずっと頭から離れない。
こうした感覚に心当たりがある方は、少なくないのではないでしょうか。睡眠の質を良くしたいと思って使い始めたはずのスマートウォッチや睡眠アプリが、いつのまにか数値に一喜一憂するストレス源になっている。これは決して珍しい話ではなく、睡眠医療の現場で「オルソソムニア」と名付けられた、現代特有の睡眠問題です。
本記事では、オルソソムニアの定義とメカニズム、セルフチェックの視点、そして睡眠トラッカーを活用した健康経営施策を進める企業の担当者が押さえておきたい注意点まで、一次情報をもとに解説します。
オルソソムニアとは|「正しい睡眠」を追い求める新しい睡眠問題
オルソソムニア(orthosomnia)は、「正しい」を意味する「ortho」と「睡眠」を意味する「somnia」を組み合わせた造語です。米国の研究者ケリー・ベアロン氏らの研究グループが2017年に学術誌『Journal of Clinical Sleep Medicine』で発表した論文のなかで、初めてこの言葉を使いました。
論文では、睡眠トラッカーのデータをきっかけに不眠や睡眠不足を自己診断し、治療を求めて受診する患者が増えている実態が、3件の症例とともに報告されています。ある40代男性の患者は、トラッカーが「8時間睡眠」を示さない日に決まって体調不良を感じると訴え、診察のたびに睡眠日誌ではなくスマートフォンのトラッカー画面を提示しました。研究グループは、こうした「完璧な睡眠データを追い求めるあまり、かえって不安や不眠を引き起こしてしまう状態」を、健康的な食事へのこだわりが行き過ぎる状態を指す「オルソレキシア」になぞらえ、オルソソムニアと名付けています。
まだ正式な医学的診断基準があるわけではありませんが、睡眠トラッカーの普及とともに臨床現場で報告が増えている現象です。
なぜ睡眠トラッカーが不眠を招くのか|3つのメカニズム
睡眠の質を良くするために使い始めたはずのデバイスが、なぜ逆効果になってしまうのでしょうか。背景には、主に3つのメカニズムがあります。
トラッカーは「推測値」であり脳波計測ではない
市販の睡眠トラッカーの多くは、脳波を直接測定しているわけではありません。心拍数・体動・皮膚温度などのセンサーデータから、睡眠段階を統計的に「推測」しています。医療機関で行う終夜睡眠ポリグラフ検査(脳波を用いた精密検査)と比較すると、睡眠段階の判定精度には限界があることが、複数の検証研究で指摘されています。
つまり、トラッカーが示す「深い睡眠30%」といった数値は、あくまで参考値であり、絶対的な正解ではありません。にもかかわらず、多くの利用者はこの推測値を自分の睡眠の真実として受け止めてしまいます。
数値への執着が交感神経を刺激する
睡眠スコアが低いと、多くの人は「今日は調子が悪いかもしれない」と不安を感じます。この不安そのものが交感神経を刺激し、体を覚醒モードに近づけてしまうことが知られています。翌晩、「今度こそ良いスコアを出さなければ」というプレッシャーを抱えたまま布団に入ると、緊張状態のまま入眠を試みることになり、かえって寝つきが悪くなるという悪循環が生まれます。
「もっと寝なければ」が逆に睡眠を乱す
スコアを上げようとして早めに布団に入ったり、長く横になっていようとしたりする対処法は、一見理にかなっているように見えます。しかし実際には、必要以上に長く床にとどまることで睡眠リズムが乱れ、かえって睡眠の質が低下するケースが少なくありません。厚生労働省の睡眠ガイドでも、就床時間を必要以上に延ばすことがかえって休養感の低下につながりうると指摘されています。
自分は当てはまる?オルソソムニアのセルフチェック
次の5つの項目のうち、いくつ当てはまるか確認してみましょう。海外の症例報告をもとに整理した、オルソソムニアの傾向をつかむための目安です(医学的な診断基準ではありません)。
3つ以上当てはまる場合は、睡眠トラッカーとの付き合い方が、知らないうちにストレス源になっている可能性があります。後述する「正しい付き合い方」を、ぜひ試してみてください。
Q. オルソソムニアは病気ですか?
現時点で正式な医学的診断基準はなく、独立した疾患として定義されているわけではありません。ただし、不安や不眠を悪化させる要因になり得るため、症状が強い場合は睡眠専門医への相談が勧められます。
企業のウェルネス施策における注意点|デバイスを配るだけでは逆効果に
健康経営の一環として、従業員にスマートウォッチやウェアラブルデバイスを配布する企業が増えています。しかし、配布するだけで終わってしまうと、意図せずオルソソムニアのリスクを高めてしまう可能性があります。
厚生労働省の「健康づくりのための睡眠ガイド2023」によれば、令和元年の国民健康・栄養調査で1日の平均睡眠時間が6時間未満の人は成人の4割程度、睡眠による休養が十分に取れていないと感じる人は20代以上で3割程度にのぼります。従業員の睡眠課題は他人事ではなく、健康経営の重要なテーマといえます。
一方で同ガイドは、アンケートなどによる主観的な睡眠時間と、脳波計等による客観的な睡眠時間には相関が弱い部分もあると指摘しており、数値だけを絶対視することの危うさは専門家の間でも認識されています。ウェアラブルデバイスを導入する際は、数値の意味や限界について従業員に丁寧に説明する研修や案内をセットで行うことが、オルソソムニアのリスクを避けながら健康経営の効果を高める鍵になります。
Q. 従業員に配布したウェアラブルで、逆に不調を訴える人が出たらどうすればいい?
デバイスの数値はあくまで推測値であることを説明したうえで、チェック頻度を減らす、体感を優先するといった使い方の工夫を案内しましょう。不安が強い場合は、産業医や医療機関への相談を促すことも重要です。
(参考)健康づくりのための睡眠ガイド2023 – 厚生労働省
睡眠トラッカーとの正しい付き合い方|4つの実践ステップ
睡眠トラッカー自体をやめる必要はありません。使い方を少し工夫するだけで、ストレス源から本来の目的である生活習慣の改善ツールに変えることができます。
睡眠に関する睡眠の質を上げる基本的な生活習慣と組み合わせることで、トラッカーを「振り返りの道具」として無理なく活用できるようになります。
Q. 睡眠トラッカーは使わない方がいいですか?
完全にやめる必要はありません。数値を絶対視せず、生活習慣を見直すための参考データとして活用すれば、トラッカーは有用なツールになります。
それでも不眠が続く場合は|医療機関への相談目安
セルフチェックや使い方の工夫を試しても不眠が続く場合や、日中の強い眠気・いびき・呼吸の乱れなど睡眠時無呼吸症候群を疑う症状がある場合は、自己判断で様子を見続けず、医療機関に相談しましょう。厚生労働省の睡眠ガイドでも、生活習慣や睡眠環境を見直しても不調が続く場合は、疾患が背景にある可能性があるとして、医師への相談を推奨しています。
睡眠に対する誤った思い込みを修正していく認知行動療法(CBT-I)は、オルソソムニアの改善にも効果的とされています。「8時間眠らなければならない」「スコアが低い=睡眠不足」といった思い込みに心当たりがある方は、一人で抱え込まず、メンタルコンディションを可視化するツールや専門家への相談も選択肢のひとつです。日々の変化を大きな視点で捉えたい場合は、ウェアラブルによるメンタルパフォーマンスの可視化も参考になります。
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Q. 何時間眠れば十分ですか?
厚生労働省の睡眠ガイドでは、成人は6時間以上を目安に、個人差を踏まえて6〜9時間程度を確保することを推奨しています。時間だけでなく、朝の目覚めや日中の調子といった「休養感」も重要な指標です。
まとめ
オルソソムニアについて解説しました。
- オルソソムニアは、睡眠トラッカーのデータへの執着が不眠を招く現代特有の睡眠問題です
- 2017年に米国の研究チームが提唱した、比較的新しい概念です
- トラッカーは推測値であり、医療機関の脳波計測とは精度が異なります
- 健康経営でウェアラブルを導入する企業は、数値の限界を伝える説明をセットにすることが重要です
- 改善しない場合は自己判断せず、医療機関やCBT-Iの活用を検討しましょう
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